第5回
宮坂 幸伸
フローからストックへ 何故「外断熱工法」を推進するのか

   今年は2月に地球温暖化防止のための京都議定書が発効し、また3月から9月の7ヶ月間、環境をテーマにした愛知万博が開かれます。いわば環境問題に明け暮れる年となります。私ども外断熱推進会議は、外断熱工法こそが環境を守り、省エネを進め、更には健康で快適な住まいを実現する道と考え、諸活動を進めて参りました。今日は、この外断熱工法が時代の要請である、ということについてのその背景、また何故NPOが制度・政策の転換を求めるのかについてお話をさせていただきたいと思います。別に目新しいことをお話しする訳ではありません。外断熱工法と環境について改めて考えることに多少なりとも役立てば幸いです。少し話しを地球規模のところからさせていただきます。

 書店で歴史書のコーナーを見ると様々な歴史全集がありますが、例外なくその第一巻は古代オリエントであることに気が付きます。岩波の世界歴史年表ではBC300万年前から始まっています。アフリカに猿人が出現した頃です。現在の人類の先祖というべきホモサピエンス、クロマニョン人がユーラシアに広がったのが約4万年前です。インダス文明が展開されたのはBC2300?1700年、ギリシャでミケーネ時代が始まったのがBC1600年ごろです。地球が出来て46億年、40億年前に海の中で最初の命がバクテリアの様にして生まれました。この長さに比べて如何に人類、文明の歴史は短いことでしょうか。
 そしてその僅かな期間しか地球のお世話になっていない人間の手に、地球の将来が委ねられているといっても過言ではないのです。

 NHKで人類の歴史を探る連続番組「地球大進化」が放映されていました。22時前に帰宅することなど殆ど無いのですが、それが幸いしてか再放送だと思うのですが、何度か見る機会がありました。山崎務さんがナビゲーターをしている番組です。人類の発生から進化の過程がとても良くわかって面白いのですが、一面大変怖いことが示されているのです。それは進化の歴史で隆盛を誇った生物は必ず滅びている、ということです。確かに人間には遺伝子進化より進化を早める発端となった「言葉」から始まった知識、文明があり、一概にそれまでの例えば恐竜の様な生物と同一視することは出来ないかも知れませんが、それ故にということもあるのではないでしょうか。ハンス・エイク氏は友人の「人間の住む地球は薄いリンゴの皮のようなものであり、そこに人間の命や営みがある」という言葉に触発されて環境問題への取り組みを始めたことは皆さんご存知のことと思います。人が科学・技術によって豊かさを追求し、その結果環境破壊を招いている現実は、大は“パンとサーカス”のローマ帝国の崩壊から小とは申しませんが、私自身が関係した国鉄の消滅のプロセスに至るまで共通して見られたAをAたらしめてきたものが、ある転換期といいますか、時間の経過を経るとその衰亡の要因となってしまうという教訓を思い出させます。国鉄の場合は例えば全国一律運賃制度による内部補助の問題等がこれにあたりました。戦後の復興期には利用客の多い大都市圏で稼いだお金を地方へ回し経営を維持しながらその地方の人々の足を守ってきました。しかし地方においてもモータリゼーションが進み、都市においては私鉄などの競争輸送機関が遥かに安価な運賃で競争する時代にはこうしたシステムは機能しないのです。今日までの豊かさをもたらした大量生産大量消費が環境負荷をどれ程高め、転換を求められているかは今日の先進国の共通する問題であり、そしてこうしたシステム転換が求められる典型と言えると思います。

 こう言ったからといって私は悲観的ではありません。それは後にも触れますが、知識・科学技術の使い方、もっと具体的に言えばあらゆる分野の構造改革を如何に進めるか、そのための意識改革、システムをどの様に進めるかで、巨大隕石の地球衝突といった人智では避けられないような自然の要因はともかくも、少なくとも人が自らの営みによって地球上に住めなくなるようなことは無いだろうと確信しているからです。前口上が長くなりましたが、今日のテーマである「これからの時代、フローからストックへ」はこうした観点からの問題提起と考えていただければ幸いです。

 システム転換が必要ということ、そこで先ず「政策選択」の在り方について少し触れます。
 義務と権利、効率性と人間性、公共性と企業性といった双方とも必要だが対立する概念があります。物事の二面性といって良いかも知れません。どちらも大切なものであり、状況に応じてどちらかを優先する、どちらかに少しシフトするという場合が必ずあります。どちらかを優先するかの判断にあたっての基準は「公正性」です。例えば公共企業体の経営の在り方を巡る議論などの際にこうしたことが当てはまりました。公共企業なのだから公共性を優先せよ、という主張がありましたが、競争相手の出現や構造変化の前に赤字を垂れ流していては、事業そのものが立ち行かなくなります。結局は利用しない人も含め税金で賄われることになってしまいます。この場合、公共性より企業性にシフトする必要があります。公共性に胡坐をかく結果となっては事業の存続は出来なくなってしまいます。国鉄の民営化を主張した背景は、公共事業体では余りに法律の制約が多く、この企業性へのシフトが不可能と考えたからでした。そのシフトの度合いは公正性の範囲で判断するということです。

 一方そうではなく、「この様にしなくてはならない」という選択があります。先に触れました「無限で劣化しない地球」を前提にした大量生産から大量廃棄に至る一方通行型社会システムが、地球の限界が明らかになる中で破綻を招くことが明らかになっています。こうした場合の選択は、こうした一方通行型社会に代わる資源循環型で環境負荷の少ない社会へと変えていくものでなければなりません。最初に述べた二面性を巡る選択は一企業なり一産業、一地方、一国家の存続を前提にしていますが、この地球を守る場合の選択は全く違うものであることはお分かりだと思います。私たちの生存の基盤を賭けた選択、現在の人間が誕生して以来の価値観を変える選択が求められているといって良いのです(先進国、途上国といった状況の違いはありますが)。

 ではこうした価値観の転換を図るための現状についてどのような認識をもつことが必要でしょうか。言うまでもなく人は生活の満足度を高めることを求めてきました。それは数値では一人当たりのGDPで示されます。一方このGDPを高めるためには自然を利用してきました。狩猟時代、農耕時代から現在の工業社会に至る間、自然を切り開き、資源を利用することで生活の満足度を高めてきたのです。一方通行型のシステムはこうした生活満足度充足のためには最も効率的ものでした。しかし自然の利用度が高まれば高まるほど生活の満足度が高まる訳ではないのです。公害問題に典型的に見られたように、或いは身の回りから自然景観が失われた際に感じる喪失感のように、結果として生活の満足感が低下してしまうのです。現在の私たちはこの生活の満足度と自然の利用度のバランスから見ると、環境許容限度(生活満足と自然利用の均衡点)を遥かに超えたところに位置しているのです。その結果地球温暖化、生態系破壊などの極めて深刻な問題に直面しているのです。

 そうした中での私たちの選択肢は何でしょうか。既にバランス・均衡点を超えている以上、自然の回復、復元を図る道があります。しかしこれは大変な困難さを伴い、何千年単位ならいざ知らず100年単位では不可能なことと思われます。発展途上国の工業化の進展、人口の増大を考えて見ればすぐにわかります。となれば残された道は、従来型の経済社会システムとは異なったシステムを作ることしかありません。これ以上の自然の破壊をしない、省資源を進める、自然界に無い化学物質を作らないといった環境保全型のシステムの構築による、資源循環型社会を作っていかねばならないのです。つまり一方通行型のシステムを転換するということです。

 このことは産業構造を、モノを次から次へと作るフローの構造から、既存のモノをうまく使いこなすストックの構造へ転換することを意味しています。そして現在の日本の産業構造がモノをどんどん作るフローの時代から、既存品をうまく使いこなすストック活用の時代へと大きくシフトしていることは皆様ご存知の通りです。ストックの構造の社会は、次々と生産する代わりに、様々な多くのサービスを提供することで質の高い生活をもたらす社会です。脱物質社会とも言うべきこうしたサービス経済に重きを置いた社会は、資源の生産性が高く、環境負荷が軽減された経済構造によって成り立つ社会といえます。直近の礼ではIBMの例があります。

 「フローからストックへ」というこの課題でいうストックとは何でしょうか。それは(1)既存のものを大切に使う、(2)ストックになり得るものを作る、という二つの側面を持つということです。ストックを重視する社会では新品の比率は下がり、既存品の比率が高まり、それをどのように使っていくかなどのサービス分野での産業が発展します。また新品については長く使用できる性能が求められるということです。使い捨てでなく、省エネ、省資源型の長寿命製品がつくられるのです。

 1995年の製造物責任法(PL法)、2001年の循環型社会形成促進法、拡大生産者責任法の施行、地球温暖化対策推進大綱の2004年の抜本的見直し、省エネ法改正はこうした時代を行政が後押しするものといえます。リデュース、リユース、リサイクルの3Rも定着してきています。

 数字で見る限り日本は有数のストック社会です。しかしその実感は薄く、それを活用しきれないと感じるのは何故でしょうか。江戸末期から明治初期に日本を訪れた欧米人はその自然、街並みの美しさに感嘆し、桃源郷であるとすら書き残しています。勿論、今から江戸の時代へ帰ることなど出来ませんが、そこに流れている建物を大切に使う発想が現在の日本にどれ程残っているでしょうか。建築の分野で考えてみても最も身近で、最も長い時間を過ごす住まいを消費するものと考えているところに、ストック社会が反映された充実感を感じることが出来るでしょうか。

 快適でしかも原則として何世代も(本当の物的資産として売却する可能性も含めて)引き継がれるものが住宅の場合のストックといえるのではないでしょうか。既存品を使いこなすには一方で市場がなければなりません。しかし、米国88.2%、英国76.1%、日本11.8%という数字がありますが、これは平成15年度の国交白書の「住宅取引数のうち中古が占める割合」です。如何に住宅が自動車やテレビのような消費財と同様に考えられているかを示している数字ともいえるのです。

 30年で建替えている現状、これを100年もつようにすれば資源の使用量は3分の1以下で済み、セメント、鋼材等の建材の生産過程を含め広く資源の節約になります。これに省エネ性能を付加すれば、室内環境を保持するための化石燃料の消費も抑制されます。

 ここで建築分野に於けるストックに絞ってみます。ストックに足る建築物ということです。長寿命の建築物は資源を節約することで環境負荷を軽減することは前提ですが、時代の要請は化石燃料をクリーンエネルギーに置き換えれば済むといった段階ではありません。エネルギーそのものを使わない建築物がこれからの長寿命建築物には必要です。さらに快適な室内環境も不可欠となります。これまでの「室内環境はそこを利用する者の責任」では済まされなくなるでしょう。こうした条件を満たして初めてストックに足る建築物といえるのです。

 話しを冒頭の歴史の世界へ少し戻しますが、今日の科学技術の発展は西欧の「自然を征服、支配し、人間の利便性を高めるように自然をつくり変えることが進歩である」という信念に支えられてきました。18世紀後半からの産業革命以降、自然は大きく変えられ、資源は無限にあるかのように使われてきました。科学技術は人間の利便性を高めるためのツールでしかないように思われていた観もあります。そこから科学技術の進歩を否定的に捉えそれを悪いとする考えもありますがこれは間違いです。本来技術は中立なものです。それを使う人間、使い方によって環境破壊つながることもあれば、環境保全に資するものでもあります。ですからより環境の保全に資する技術があることがわかっていながらこれを使わない、利用しないということは無作為、未必の故意にも相当する「罪」ということも出来るのです。人間の持続可能性は自然によって支えられていることを考えれば「犯罪」ともいうべき怠慢なのです。

 長い間に培われた工法が最も容易であり、当面はそれで済むといった状況の中で、新しい、或いは経験が少ない工法へ転換することは抵抗もあり、更にそれを拒む数々の要素もあります。言い訳は幾らでも出来るということでもあります。しかし、環境保全のための法律や制度の強化は、それに果敢に挑戦することで大きなビジネスチャンスとなるのです。日本の自動車産業では70年代の排ガス規制(マスキー法)を如何にクリアするかで大変な対応を余儀なくされましたが、それが80年代からの飛躍的な発展につながったことはまだ記憶に新しい所です。環境省の試算では2000年に約30兆円の環境ビジネスは2020年には100兆円になるといいます。

 ストック構造への転換、とりわけ住宅建築分野にあっては日本ではようやく緒についた段階かもしれませんが、現在の科学技術が到達した最善の建築工法である「外断熱工法」は、このフローからストックへの時代を具現化するものであり、その普及のために更に頑張りたいと申し上げて、今日のお話しを終えさせていただきます。

(2005年1月14日 EIPC主催 新春特別講座の内容に、講演者が加筆、訂正したもの。)


 
宮坂 幸伸
NPO外断熱推進会議 専務理事